皆さんは松川事件といって分かるかなぁ?戦後最大の冤罪事件で、検察が証拠隠しと捏造をやってのけた、とんでもない事件と裁判だ。
事件は1949年8月17日午前3時9分、東北本線松川ー金谷川間で起きた。貨物列車が脱線転覆し、機関士ら3人の乗務員が死亡した。
警察は人員整理(首切り)に反対していた地元の東芝労組と国鉄労組などの組合員たちが引き起こしたものと見て20人を逮捕、起訴された。
一審の判決は東芝労組の佐藤一さんら5人に死刑、残り15人も有罪の判決だった。
被告たちは当然無罪として裁判を争ったのだが、被告団の中で最年少だった赤間被告の自白調書が重要な役割を果たし、無罪を勝ち取るのは難しい状況だった。そこに爆弾のようなアリバイを裏付ける証拠が投げ込まれた。
それが後に「諏訪メモ」と呼ばれるようになる日記帳の存在だ。
これは当時東芝の工場の事務課長補佐をしていた諏訪親一郎氏が団体交渉の様子を大学ノートに出席者の名前などともにを書き込んでいたものだ。
検察のストーリーでは7月13日と15日に被告たちが列車転覆の共同謀議をしたことになっている。が、この諏訪メモによれば謀議の中心人物、佐藤一氏は同じ時間に団体交渉の席にいたことが明らかだ。
検察はこの重要な、しかし、検察のストーリーには不利な証拠を意図的に隠していたのだ。
それを最初に素っぱ抜いたのが、当時毎日新聞福島支局二年生の倉嶋康記者だった。
今日、倉嶋さんに初めて聞いたけど、かれは団体交渉の記録があることを当時の宮本検事正に直接聞いたのだという。しかもその記録は福島地検にはなく、郡山支部にいる鈴木久学検事(かつて松川事件担当検事)が持っていることも分かった。
倉嶋さんがスクープした、この諏訪メモの衝撃は大きく、最終的には裁判は全員無罪で終わった。
先ごろは村木さんの裁判では主任検事が証拠を改竄までして検察のストーリーを押しとおそうとしていたことが明らかになっている。でもショックだったのは倉嶋さんのスクープ記事は社会面ではなく、福島県版だったということだ。
当時のデスクたちがいかにニュースに鈍かったか!
こんな世紀のスクープを一面はおろか社会面にも載せないなんて
(写真は倉嶋さんと、福島大学松川事件資料室で。手にしているのが諏訪メモのコピー)
2011年4月27日水曜日
2011年4月17日日曜日
鳥越俊太郎の”ニュース力”養成講座 始まりました。
4月からメールマガジンの「まぐまぐ」で鳥越俊太郎の”ニュース力”養成講座 始まりました。とりあえずはサンプル版として先日、私が福島原発の正門前まで潜入したときの話が動画とテキストでご覧になれます。これからもニュースの読み方をタイミングよく皆さんにお届けして行くつもりです。ここを見ていればニュースの一つ一つが、ああ、そうなんだ!と腑に落ちるように書いて行くつもりです。全力投球します。ご期待ください。
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2011年4月14日木曜日
2011年4月4日月曜日
福島第一原発の真相
JR常磐線富岡駅前の惨状(未だ手つかず)
4日早朝に東京を出発、福島第一原発を目指した。常磐道を経て南側から接近した。
私の取材目的・意図は規制線が敷かれたため20キロ圏内、30キロ圏内の実情見えなくなっており、それを知るため。誰もやらないなら自分で見てくるしかない、という気持ちです。ちょうど、2004年1月やむにやまれずイラクの戦場に行ったときと心情としては同じかな。
30キロ圏内に入るところで、福岡県警の警察官にチェックを受けた。そのお巡りさんが福岡の、同じ田舎出身で、こんなところで会うなんてとびっくり。和やかに会話。その後は人影ひとつない道路をひた走る。
しばらく田舎道をドライブ。すると左側に公衆便所を発見、で、トイレストップ。たまたま隣で連れションのおじさんと会話。今日は娘さんの家に母子手帳などを取りに行くところだという。娘さんの家は原発から23キロ地点にある。
「一緒に行きますか?」という話になり、おじさんの後を追って娘さん宅へ。家の中は地震でめちゃくちゃに壊れていた。ただ電気がついていたのが不思議。
更に雑談中におじさんは東京電力の協力企業の社員で第一原発で働いていた。
ラッキーな出会いに感謝しつつ地震時の様子などを聴いていた。ところが、おじさん、Kさんというのだが、なんと自宅が8キロ地点にあり、そこにこれから行くところだという。
じゃあ、そこも一緒に行こうということになりました。ここまでは線量計で計測しつつ用心深く行動、東京では0、05だった放射線の値が流石にこの辺りでは2マイクロシーベルトを前後。だけど予想をはるかに下回る数字に驚く。Kさんの自宅に行った後、引き返すつもりだったが、原発の排気筒がもう少し行くと見えますよ、と走っているうちに着いたところが第一原発の正門町だった。さすがだなぁ、ここでは118マイクロシーベルトを記録。でも千マイクロシーベルトぐらいを予想していたので、風の向きのせいか値が70台に下がったときは本当かなと疑ったくらい。
帰り道に屋内待避している住民を探したが、どの家も留守。町中がしんと静まりかえり、ゴーストタウンとはこのことか!
枝野官房長官の「自主避難」の言葉は見事に効いていた。本当はキチンとモニタリングして避難のあり方を決めた方がいいのではないか?そう思いつつ帰路についた。
4日早朝に東京を出発、福島第一原発を目指した。常磐道を経て南側から接近した。
私の取材目的・意図は規制線が敷かれたため20キロ圏内、30キロ圏内の実情見えなくなっており、それを知るため。誰もやらないなら自分で見てくるしかない、という気持ちです。ちょうど、2004年1月やむにやまれずイラクの戦場に行ったときと心情としては同じかな。
30キロ圏内に入るところで、福岡県警の警察官にチェックを受けた。そのお巡りさんが福岡の、同じ田舎出身で、こんなところで会うなんてとびっくり。和やかに会話。その後は人影ひとつない道路をひた走る。
しばらく田舎道をドライブ。すると左側に公衆便所を発見、で、トイレストップ。たまたま隣で連れションのおじさんと会話。今日は娘さんの家に母子手帳などを取りに行くところだという。娘さんの家は原発から23キロ地点にある。
「一緒に行きますか?」という話になり、おじさんの後を追って娘さん宅へ。家の中は地震でめちゃくちゃに壊れていた。ただ電気がついていたのが不思議。
更に雑談中におじさんは東京電力の協力企業の社員で第一原発で働いていた。
ラッキーな出会いに感謝しつつ地震時の様子などを聴いていた。ところが、おじさん、Kさんというのだが、なんと自宅が8キロ地点にあり、そこにこれから行くところだという。
じゃあ、そこも一緒に行こうということになりました。ここまでは線量計で計測しつつ用心深く行動、東京では0、05だった放射線の値が流石にこの辺りでは2マイクロシーベルトを前後。だけど予想をはるかに下回る数字に驚く。Kさんの自宅に行った後、引き返すつもりだったが、原発の排気筒がもう少し行くと見えますよ、と走っているうちに着いたところが第一原発の正門町だった。さすがだなぁ、ここでは118マイクロシーベルトを記録。でも千マイクロシーベルトぐらいを予想していたので、風の向きのせいか値が70台に下がったときは本当かなと疑ったくらい。
帰り道に屋内待避している住民を探したが、どの家も留守。町中がしんと静まりかえり、ゴーストタウンとはこのことか!
枝野官房長官の「自主避難」の言葉は見事に効いていた。本当はキチンとモニタリングして避難のあり方を決めた方がいいのではないか?そう思いつつ帰路についた。
2011年4月3日日曜日
2011年4月2日土曜日
ああ卒業、という名のリストラ!
昨日4月1日スーパーモーニングは終わった。我々コメンテーターは大半が卒業だった。ま、しかし、卒業などと銘打ってはいるが、有り体にいえば、新番組を始めるに当たってあなたは残って、あなたは要らないというセレクションをしたあげく、卒業組は言ってみりゃリストラだわなぁ、はい。残り組では東千鶴はホリプロ行政物件、松尾貴司は古舘プロ物件、長島一茂は長島茂雄物件、吉永みち子はテレ朝トップ物件(らしい)ということを解説されて、ふーん
ま、珠ちゃんは応援したいし、モーニーグバードという駄洒落に近い新番組にエールを送りたい。
リストラ組のうち、何人かはなんの手当てもなくぽいと捨てられ
なんの当て無し、路頭にまよっている、なーてぇことはないかなぁ(笑い)
テレビ局改変の度悲喜こもごもがあるとは聞いてはいたが、私も初めて体験、いやいやいい体験だつた。
さて本日は京都へ。がん友の友人と花を見る!
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