2011年6月30日木曜日

ようやく本を出しました『がん患者』(講談社)


 今年1月から書き始めていたがん闘病の記録が今日30日、『がん患者』という本になって講談社から出版されました。休日もない中で少しでも時間を作り書き綴って来たものが一冊の本になるのはうれしいものですねぇ!私は2005年10月に大腸がんの手術を受けて以来、肺と肝臓に転移して4回の手術をやりました。自分でも4回も体にメスを入れたのか、と驚くばかりですが、現在の医療のレベルはすごいですね。今のところは元気に暮らしています。それどころかがんの手術をする以前より今の方が健康的で体の調子もいいという状況です。
 この5年間のすべてをディテールに拘って書きました。だからがんの患者の方にもこれからなるかもしれないがん予備軍の方々にも参考になるものだと思っています。是非参考にしてがんとのつきあい方を考えてみてください。
 出来るだけ客観的で、しかも平易に書こうと努めましたので読みやすい本だと思います。
 日本人2人に1人はがんになり、3人に1人はがんで亡くなるという時代。専門家の話では2015年には亡くなるのも2人に1人になるそうですから、これをお読みなっているあなたやあなたの家族の誰かががんになる可能性がある時代なんですね。がんになると何が起きるのか?患者は何を思うのか?家族はどうすればいいのか?いざがんになるとやらなければならないことや考えなければならないことがわーっと押し寄せてきます。そのときに備えて私の体験記を是非読んでみてください。きっといろんなヒントが得られると思います。

2011年5月6日金曜日

カトリーナの爪痕


ニューオーリンズで驚いたのは2005年8月に襲ったハリケーン・カトリーナの爪痕が町のあちこちに多く残っていることだ。
この年の10月に私は直腸がんの手術をしたので、カトリーナの傷が癒えるのと私のがんとの戦いの日々とは時期的にはちょうど重なるわけだ。
結構時間は経っているように思えるが、ニューオーリンズの被災地帯を車で念入りに回ってみると、壊れたまま放置された家がそこらじゅうにあり、家の礎石だけがむき出しに残り、もはや原野としか言いようがないところが目立った。
多くの住民が町を出たまま未だに帰っていないのだという。被災地の大半がミシシッピ河や湖の近くにある貧困層の住んでいたところで、100%黒人、つまりアフリカ系アメリカ人だ。 ニューオーリンズは黒人居住区と白人の住んでいる地域は確実に分かたれているようだ。黒人居住区で被災地の親や家を失った子供たちを音楽で立ち直らせている試みールーツ・オブ・ミュージックの練習を見学に行った。8歳から14歳までのこども125人がブラスバンドの練習をやっていた。教えているのはボランティアの音楽教師やミュージシャンたちだった。練習中の子供たちは真剣で規律正しいのが印象的だった。
何かに熱中するのはいい教育なんだろうな。
日本の津波の被災地の子供たちには極めて示唆に富む光景だった。
(写真はミシシッピ河を背景に取材スタッフと)
なお、この取材報告は6月7日夜NHKのBS1で放送される。こう、ご期待!

2011年5月4日水曜日

ニューオーリンズの町には音楽が溢れている

4月30日からアメリカはルイジアナ州ニューオーリンズに来ている。
NHKの「旅のチカラ」という番組の取材で10日間ね旅だ。旅の目的はマイ・ラストソングを探すこと!私は新聞記者になりたてのころ、新潟支局時代だけど、偶然手にした一枚のLPレコードに心を奪われた。
それはそれまで大学生のころ親しんでいた音楽とは異なるものだった。
オスカー・ピーターソン、ピアノトリオ。
初めて知ったビアにストだった。後で彼はジャズピアニストとしては神のような存在だと知ることになるが、その時はジャズの世界に疎かったせいで、何も知らないまま手にしたレコードだった。
何気なく下宿の部屋で独り聞いたとき、すっかりはまってしまった。
「カナダ組曲」
カナダ生まれのオスカー・ピーターソンが作曲、演奏している、この組曲を繰り返し繰り返し聞いたものだ。
私の青春時代に出会った忘れ得ぬ一枚の絵のような記憶だ。
そこから私はジャズの世界に導かれていったようなものだ。
で、今回の旅はジャズが生まれた町、ニューオーリンズに自分が死を意識したとき最後に聞く曲を探しにやって来たというわけだ。
ニューオーリンズの町にはジャズが溢れている。フレンチクォーターの通りではあちらこちらからバンドの音が聞こえてくる。
ここは一年中お祭りのような町だ。存分に楽しんでいきたい。
写真はここの祭り、マルディグラでみんなが被るマスクを被ってみたところ!

2011年4月27日水曜日

松川事件のカギ「諏訪メモ」を見た!!

皆さんは松川事件といって分かるかなぁ?戦後最大の冤罪事件で、検察が証拠隠しと捏造をやってのけた、とんでもない事件と裁判だ。
事件は1949年8月17日午前3時9分、東北本線松川ー金谷川間で起きた。貨物列車が脱線転覆し、機関士ら3人の乗務員が死亡した。
警察は人員整理(首切り)に反対していた地元の東芝労組と国鉄労組などの組合員たちが引き起こしたものと見て20人を逮捕、起訴された。
一審の判決は東芝労組の佐藤一さんら5人に死刑、残り15人も有罪の判決だった。
被告たちは当然無罪として裁判を争ったのだが、被告団の中で最年少だった赤間被告の自白調書が重要な役割を果たし、無罪を勝ち取るのは難しい状況だった。そこに爆弾のようなアリバイを裏付ける証拠が投げ込まれた。
それが後に「諏訪メモ」と呼ばれるようになる日記帳の存在だ。
これは当時東芝の工場の事務課長補佐をしていた諏訪親一郎氏が団体交渉の様子を大学ノートに出席者の名前などともにを書き込んでいたものだ。
検察のストーリーでは7月13日と15日に被告たちが列車転覆の共同謀議をしたことになっている。が、この諏訪メモによれば謀議の中心人物、佐藤一氏は同じ時間に団体交渉の席にいたことが明らかだ。
検察はこの重要な、しかし、検察のストーリーには不利な証拠を意図的に隠していたのだ。
それを最初に素っぱ抜いたのが、当時毎日新聞福島支局二年生の倉嶋康記者だった。
今日、倉嶋さんに初めて聞いたけど、かれは団体交渉の記録があることを当時の宮本検事正に直接聞いたのだという。しかもその記録は福島地検にはなく、郡山支部にいる鈴木久学検事(かつて松川事件担当検事)が持っていることも分かった。
倉嶋さんがスクープした、この諏訪メモの衝撃は大きく、最終的には裁判は全員無罪で終わった。
先ごろは村木さんの裁判では主任検事が証拠を改竄までして検察のストーリーを押しとおそうとしていたことが明らかになっている。でもショックだったのは倉嶋さんのスクープ記事は社会面ではなく、福島県版だったということだ。
当時のデスクたちがいかにニュースに鈍かったか!
こんな世紀のスクープを一面はおろか社会面にも載せないなんて
(写真は倉嶋さんと、福島大学松川事件資料室で。手にしているのが諏訪メモのコピー)

2011年4月17日日曜日

鳥越俊太郎の”ニュース力”養成講座 始まりました。


 4月からメールマガジンの「まぐまぐ」で鳥越俊太郎の”ニュース力”養成講座 始まりました。とりあえずはサンプル版として先日、私が福島原発の正門前まで潜入したときの話が動画とテキストでご覧になれます。これからもニュースの読み方をタイミングよく皆さんにお届けして行くつもりです。ここを見ていればニュースの一つ一つが、ああ、そうなんだ!と腑に落ちるように書いて行くつもりです。全力投球します。ご期待ください。


まぐまぐページへ

2011年4月14日木曜日

目黒川の花見

過日、花も咲いたかな、と目黒川の花見に出掛けた。風が強く春の季節にしては薄ら寒い夕暮れどき。最近の不順な天候に花も踏み迷っているかのよう。3,11の後、日本中を覆っている気分とどこか繋がっているように思える。食事が終わって外に出てみると、重たい闇が桜の艶やかさを押し潰していた。街灯はついているものの、ライトアップは一切なしで、薄暗がりの路上で若者たちがボソボソと酒を飲んでいた。盛り上がらない花見だねぇ!花見自粛をとなえる石原慎太郎さんがまた都知事になっちゃったよ。エエのかニッポン?思わずこぼれた。

2011年4月4日月曜日

福島第一原発の真相

           JR常磐線富岡駅前の惨状(未だ手つかず)


4日早朝に東京を出発、福島第一原発を目指した。常磐道を経て南側から接近した。
私の取材目的・意図は規制線が敷かれたため20キロ圏内、30キロ圏内の実情見えなくなっており、それを知るため。誰もやらないなら自分で見てくるしかない、という気持ちです。ちょうど、2004年1月やむにやまれずイラクの戦場に行ったときと心情としては同じかな。
30キロ圏内に入るところで、福岡県警の警察官にチェックを受けた。そのお巡りさんが福岡の、同じ田舎出身で、こんなところで会うなんてとびっくり。和やかに会話。その後は人影ひとつない道路をひた走る。
しばらく田舎道をドライブ。すると左側に公衆便所を発見、で、トイレストップ。たまたま隣で連れションのおじさんと会話。今日は娘さんの家に母子手帳などを取りに行くところだという。娘さんの家は原発から23キロ地点にある。
「一緒に行きますか?」という話になり、おじさんの後を追って娘さん宅へ。家の中は地震でめちゃくちゃに壊れていた。ただ電気がついていたのが不思議。
更に雑談中におじさんは東京電力の協力企業の社員で第一原発で働いていた。
ラッキーな出会いに感謝しつつ地震時の様子などを聴いていた。ところが、おじさん、Kさんというのだが、なんと自宅が8キロ地点にあり、そこにこれから行くところだという。
じゃあ、そこも一緒に行こうということになりました。ここまでは線量計で計測しつつ用心深く行動、東京では0、05だった放射線の値が流石にこの辺りでは2マイクロシーベルトを前後。だけど予想をはるかに下回る数字に驚く。Kさんの自宅に行った後、引き返すつもりだったが、原発の排気筒がもう少し行くと見えますよ、と走っているうちに着いたところが第一原発の正門町だった。さすがだなぁ、ここでは118マイクロシーベルトを記録。でも千マイクロシーベルトぐらいを予想していたので、風の向きのせいか値が70台に下がったときは本当かなと疑ったくらい。
帰り道に屋内待避している住民を探したが、どの家も留守。町中がしんと静まりかえり、ゴーストタウンとはこのことか!
枝野官房長官の「自主避難」の言葉は見事に効いていた。本当はキチンとモニタリングして避難のあり方を決めた方がいいのではないか?そう思いつつ帰路についた。