2011年4月4日月曜日

福島第一原発の真相

           JR常磐線富岡駅前の惨状(未だ手つかず)


4日早朝に東京を出発、福島第一原発を目指した。常磐道を経て南側から接近した。
私の取材目的・意図は規制線が敷かれたため20キロ圏内、30キロ圏内の実情見えなくなっており、それを知るため。誰もやらないなら自分で見てくるしかない、という気持ちです。ちょうど、2004年1月やむにやまれずイラクの戦場に行ったときと心情としては同じかな。
30キロ圏内に入るところで、福岡県警の警察官にチェックを受けた。そのお巡りさんが福岡の、同じ田舎出身で、こんなところで会うなんてとびっくり。和やかに会話。その後は人影ひとつない道路をひた走る。
しばらく田舎道をドライブ。すると左側に公衆便所を発見、で、トイレストップ。たまたま隣で連れションのおじさんと会話。今日は娘さんの家に母子手帳などを取りに行くところだという。娘さんの家は原発から23キロ地点にある。
「一緒に行きますか?」という話になり、おじさんの後を追って娘さん宅へ。家の中は地震でめちゃくちゃに壊れていた。ただ電気がついていたのが不思議。
更に雑談中におじさんは東京電力の協力企業の社員で第一原発で働いていた。
ラッキーな出会いに感謝しつつ地震時の様子などを聴いていた。ところが、おじさん、Kさんというのだが、なんと自宅が8キロ地点にあり、そこにこれから行くところだという。
じゃあ、そこも一緒に行こうということになりました。ここまでは線量計で計測しつつ用心深く行動、東京では0、05だった放射線の値が流石にこの辺りでは2マイクロシーベルトを前後。だけど予想をはるかに下回る数字に驚く。Kさんの自宅に行った後、引き返すつもりだったが、原発の排気筒がもう少し行くと見えますよ、と走っているうちに着いたところが第一原発の正門町だった。さすがだなぁ、ここでは118マイクロシーベルトを記録。でも千マイクロシーベルトぐらいを予想していたので、風の向きのせいか値が70台に下がったときは本当かなと疑ったくらい。
帰り道に屋内待避している住民を探したが、どの家も留守。町中がしんと静まりかえり、ゴーストタウンとはこのことか!
枝野官房長官の「自主避難」の言葉は見事に効いていた。本当はキチンとモニタリングして避難のあり方を決めた方がいいのではないか?そう思いつつ帰路についた。